「散歩のついでに富士山に登った人はいない」と言われます。
新世紀を迎える昨今新聞やテレビの特集で100年前の日本の有識者たちが、100
年後、即ち今日の日本人がどのような生活をしているか、予想した内容を報じています。
そしてその多くが実に的確に今日の私たちの生活を言い当てていることに驚かされます。
携帯電話やインターネットの普及を予言したもの、新幹線や自動車などの交通網の発
達を言い当てたもの、義務教育から大学教育までの教育の発展、CTスキャンなど医療
の発展、宇宙ステーションの登場など、その想像力には驚かされます。
さて、そこで考えてみました。100年前の人たちがなぜこんなにも遠い未来のこと
を想像できたのか?昔の人たちだけが特段に想像力があったとか、予知能力が有ったわ
けではないと思います。ではなぜか?私なりの意見としては順序を逆にして考えて見る
とわかりやすいのですが、「想像したからこそそこに到達した」と考えるべきではない
かと思うのです。「念ずれば花ひらく」という言葉もありますが、ああなったらいいな。
こうなったらいいな。から、ではこうしよう。ということの積み重ねが今日の社会を作
り上げたのではないでしょうか。つまり「散歩のついでに富士山に登った人はいない」
と言われる通り、富士山に登ろうと決心したひとだけが富士山に登れるということと同
じであると思うのです。
さて今21世紀を迎えて私たちは新たな世紀をどのように想像するのでしょうか?で
きるできないは別として想像しることが大切ですから100年後、私たちの生活はどの
ようになっていて欲しいと望むかによって未来も大きく違ってくるのではないでしょう
か?
うん、なかなか思い浮かばなかったり悪いイメージばかりが頭に浮かぶところに現代
社会の最大の病理があると思うのですが、思い切って良いように想像してみましょう。
例えばそれは宇宙船が空を飛ぶとかロボットが家事をこなしてくれる。といった科学
技術の発達した世の中でしょうか?
例えばそれは世界の国境がなくなり、アジアが一つの通貨圏で結ばれるなど、経済が
発展した世の中でしょうか?
例えばそれは古き良き日本に立ち返るというような復古的な姿でしょうか?
私は望みます。
「21世紀のわが国は、人間が人間として人間らしく生きられる国であって欲しい。」
と。
環境の破壊がやみ、資源循環という自然の恵みのなかに成り立ちうる生活があり、戦
争の恐怖から人々が開放され、自由を希求する市民がその代償としての奉仕を惜しまな
い社会。
あらゆる分野の科学技術は発達し、そして人類がその技術を活かしうる倫理観をも同
時に獲得できる社会。
政治がその信頼を回復し、行政がその機能を存分に発揮し、企業は利潤を追求すると
同じように社会への貢献をも望む社会。
子どもたちがあらゆる飢餓や迫害から開放され、バーチャルな幻想からをも開放され、
学ぶ目的を持てる社会。
そんな社会の実現のために、例えば今の有り余った物質文明と決別することになんの
ためらいが必要でしょうか?
そんな社会の実現のために私は生きたい。
|